写真は、現役を退官した平成16年(2004)の元日、旧事務所棟2階から初日を見つめる鈴木さんです。
第4回犬吠埼灯台乙女養成講座のご案内
鈴木照秋(すずき・てるあき)さんは親子二代、ご自身は2度の犬吠埼灯台勤務。 父鈴木美代次氏(成東生まれ)が戦地から戻って灯台に復帰した4歳の頃から、鈴木さんの灯台一筋の人生が始まりました。やがてご自身も海上保安官になり、全国各地の灯台で勤務、まさに映画「喜びも悲しみも幾年月」の世界です。銚子海上保安部航行援助センター所長を最後に現役を退き、現在は、(公社)燈光会の嘱託として同灯台の参観業務をサポートしています。今回は、灯台とはまだまだ縁が切れそうにない鈴木さんが、とっておきの「灯台ばなし」を語ります。
また、動力が焼玉エンジン時代と推測される霧笛吹鳴の様子を記録した戦前の無声記録映画「海の道しるべ゛航路標識のしくみ」も上映いたしますので、どうぞお楽しみに。
講師 鈴木照秋氏の略歴
昭和18年 千葉県山武市生まれ
昭和39年 海上保安学校灯台専攻科 卒業
昭和47年 犬吠埼航路標識事務所 勤務 (初回)
昭和62年 東京湾海上交通センター 主任管制官
平成13年 犬吠埼航路標識事務所 所長 (2回目)
平成15年 銚子海上保安部 航行援助センター 所長(退職時)
北海道から九州までの全国各地の航路標識事務所(つまり灯台、ロラン局、デッカ局等)勤務
<私と鈴木さんとの交流>
振り返ってみますと鈴木さんとのお付き合いはもう20年ぐらいになりますでしょうか。その間勤務地を手紙やメールで追い廻し、ご自宅に押しかけ、灯台全般に関して実に多くのことを教えていただきました。以下は懐かしい鈴木さんと私の交流の足跡です。
※ 平成10年(1998)8月23日付の手紙
「本年春先より東京の燈光会に資料を求めて三度ほど訪ね、T事業部長様のご指導を受けながら、機関誌『燈光』に掲載された犬吠埼関連記事の目録を作成、目下ひとつづつ当たっているところでございます。その過程で、御尊父故鈴木美代次氏の回想(「犬吠と私」、昭和49年)に巡り会い、もしや鈴木美代次氏こそは昭和初期に犬吠三四二のペンネームで盛んに「燈光」誌上で健筆を揮われた人物と同一人ではないのだろうか、引退して成東町に住んでいるとあるが、家族の方が現在もご健在でいらっしゃらないだろうか、ご子息照秋氏と親子二代で犬吠埼に勤務されたとあるが、照秋様に灯台に勤務した先輩としての御尊父やご自身の犬吠埼時代の思い出話を聞けないだろうか、神戸時代に水害で資料をなくしたとあるが、犬吠埼についての故美代次氏の記録や写真、その他の資料が残っていないだろうかと思い、Tに照会いたしましたところ、照秋様の現在の勤務先を教えていただいたという経緯です。
私の推測が当たっていれば、三四二氏の幅広い執筆活動の跡を丁寧にたどることによって、灯台の人間的側面の歴史を理解する大きな手がかりを得ることができるのではないかと考えます。ご公務多忙なおり、ご迷惑かとは存じましたが、その背景や文脈をより正確に知るためには、御尊父様のご経歴などをお身内の方にお伺いしておくことが必要ではないかと思い、取るものも取りあえず照会の手紙を差し上げた次第です。
※ 平成16年(2004)1月2日
「今年は犬吠埼130周年の年、元日に妻と娘と3人で初日の出を見に犬吠埼に行きました。常に穏和な鈴木所長様が初日の出を見に時々事務所の二階から姿を見せたのを拝見致しました。声を掛けようかとも思いましたが、大勢いる中で気恥ずかしく、新年のご挨拶もせずに帰ってしまいました。」
※ 平成16年(2004)4月8日(退職のご挨拶状をいただいて)
「パソコンの中の保存ファイルを辿ってみますと、平成10年(1998)8月23日付の手紙が出て参りました。ご尊父美代次様の執筆された『燈光』の記事がご縁でご指導いただくことになった鈴木様を、お顔も知らないまま宇久(五島列島)まで追いかけ、初めて招待された東京霞ヶ関の灯台記念日祝賀会の永年勤続表彰式でご自慢の奥様共々晴れ姿のご本人様とお会いした時の感激、さらには私ども犬吠埼ブラントン会もその実現のために支援協力していた犬吠埼灯台資料館建設の一番大事な時に所長として最終勤務地となったわが銚子犬吠埼に赴任されるなど、偶然とは申せご縁の濃さに驚いております。銚子に参られてからは当方のいろいろな事情で、却ってじっくりとお付き合いすることができませんでしたが、県内にお住まいということでもございますので、その分これから取り返そうと思っております。どうぞ末永くおつきあいくださいますようお願い申し上げます。」