日本で西洋式の灯台が建設されるようになった直接的な要因は、幕末期に江戸幕府が西欧諸国と結んだ改税約書第11条の取り決めにあるというのが通説です。灯台の設置場所について4箇国間で調整しましたが、米国だけが要望した犬吠埼は残念ながらこの時には取り上げられませんでした。

明治になってこれら条約灯台が次々に稼働するようになると、灯台は外国船のため(外発的要因)だけでなく自国の船舶にも有用であると認識(内発的要因)するようになりました。新政府は、一定時期集中的に灯台の建設や保守に関わる外国人を破格の高給で雇い、大型フレネル・レンズや回転機械で構成された高価な灯台システムをスコットランドから導入する方式で、灯台整備を積極的に推進していったのです。

こうして明治5年9月に着工した犬吠埼灯台は、お雇い外国人R.H.ブラントンをリーダーとする英国人技師や職人、日本の技師や工事の事務を担当する役人、地元採用の土工や御用掛を仰せ付かった地元有力者たちの協調(助け合い)と緊張(せめぎ合い)の極めてダイナミックな技術移転のプロセスを経て完成し、明治7年11月15日、初点灯の日を迎えました。工事中レンガの製造・調達をめぐって内外の技師たちが国産品の適否について論争したとも伝えられていますが、結局良質の粘土を求めて利根川を遡り、新治県香取郡高岡村(旧下総町)で焼いたものが使用されました。これらのレンガを上がすぼまった円筒形に積み上げた灯塔は、外壁と内壁の間に中空部をつくり、8か所の放射線状の接合壁(バットレス)で両方の壁をつないだ二重壁構造になっています。ブラントンのこの独創的な構造を持つ灯台は日本に4基しかなく、その中で犬吠埼は最も古いことから建築史的な価値が非常に高いとされているのです。

以下の図は、幕末から明治初年における洋式灯台の整備をめぐる諸力の構図を示しています。

幕末・明治初年における洋式灯台整備の構図

幕末・明治初年における洋式灯台整備の構図


リチャード・ヘンリー・ブラントン

01 リチャード・ヘンリー・ブラントン

(Richard Henry Burunton, 1841-1901)
職名:築造方首員
月給:450円後に600円
任期:明治元年2月2日~明治9年3月15日

英国スコットランドのキンカーデーン州フェテレッソ生まれ。土木技師を志したブラントンは当初鉄道関係の仕事に従事していたが、日本で灯台を建設する技師の選考を任されていた日本の灯台顧問スティブンソン社の募集に応じ、短期間同社の下で研修をした後、明治元年(1868)8月来日。以後、本国のスティブンソン社と連携しながら、技師長として外国人や日本人の技師・職工を統率し、8年間に犬吠埼灯台を含む25基の灯台及び2隻の灯船を建設、「日本の灯台の父」と尊称されています。なお、ブラントンは灯台の外にも横浜の鉄橋や公園・並木道、下水道整備といったまちづくりや各地の港湾計画の提案など幅広い分野で活躍しました。

02 スターリング・フィッシャー

(Stirling Fisher, 生没年不詳)
職名:築造方補員
月給:365円
任期:明治3年3月19日~明治8年2月14日

スコットランドのエディンバラ生まれ。ブラントンの補佐役マクヴェインとブランデル両技師が着任後数年で相次ぎ辞職したため後任の技師として着任。ブラントンの指揮の下全国各地の灯台建設予定地の測量や工事の監督をして廻りました。明治5年5月15日、16日には銚子にテーボル号で佐藤灯台権頭らと来航、犬吠埼を精査しています。ブラントンが休暇帰国中の1年間は、灯台の運用開始を知らせる7基分の布告書(Notice to Mariners)を首員ブラントンに代わってフィッシャー名で発しています。明治7年8月、健康を害し、病気療養のため帰国しましたが、日本への再度赴任は果たせませんでした。

03 ジェームズ・マクリッチー

(James McRichie, 1847-1895)
職名:築造方補員後首員
月給:450円
任期:明治5年3月5日~明治12年12月31日

ブラントンが休暇帰英する直前に灯台技師として採用されました。明治7年に先任のフィッシャーが病気帰国、明治9年ブラントンの解雇に伴って技師長に昇格。マクリッチーを最後にお雇い外国人技師による灯台整備の時代は終わり、藤倉見達や石橋絢彦ら英国留学で西洋技術を体得して帰った技師たちの活躍の時代となっていきました。 土木技師としてのマクリッチーの活躍はめざましく、ブラジルの鉄道工事や永住の地に選んだシンガポールのマクリッチー貯水池や鋳鉄製の市場の建物など数多くの実績を残しています。

A.R.ブラウン

04 A.R.ブラウン

(A.R.Brown, 1839-1913)
職名:灯台見廻船船長
月給:350円
任期:明治2年1月16日~明治13年6月

スコットランド生まれ。船員として勤務していた英国P&O社の船中で日本に赴任する途中のブラントンと知り合い、以後ブラントンの灯台建設事業を補助する船長となりました。西南戦争での傭船手配や灯台視察船明治丸の発注などを手がけました。後に三菱蒸気船会社に転じて岩崎弥太郎を助け、日本郵船や商船学校(現東京海洋大学)の基礎を築きました。明治22年(1889)在グラスゴー日本領事の任命を受け、帰国後、造船・海運・機械関連の総合商社を創立しました。現在日本法人エア・ブラウン株式会社が東京でブラウンの事業を継承しています。

コリン・アレクサンダー・マクヴェイン

05 コリン・アレクサンダー・マクヴェイン

(Colin A. Mcvein, 1838-1912)
職名:築造方補員
月給:300円
任期:明治元年2月2日~明治2年7月25日

スコットランドのアイオナ島生まれ。ブラントンに同行して来日、測量が専門で来日当初は横浜居留地の測量などを手がけ、そのほか弁天橋の灯台官舎等の建築設計やブランデルと交代で神子元島灯台建設現場に勤務しました。マクヴェインは聖職者の家庭で育ち、妻もエディンバラ近郊の大製紙会社を経営する裕福な家で育ったこともあって、実際の仕事と専門分野、給料や住居など待遇への不満、家族と離れた島詰めの生活、上司ブラントンとの人間関係などで悩んでいました。明治2年7月意を決して辞職、灯台建設事業から身を引きました。その後横浜で民間事業を経営するが、間もなく工部省地理寮の測量司長として再任用され、任期中測量や気象観測の分野で多大な貢献をしました。

06 アーチボルト・ウッドワード・ブランデル

(A.W.Blundell, 生没年不詳)
職名:築造方補員
月給:300円
任期:明治元年2月2日~明治3年4月4日

スコットランド生まれ。ブラントンと同じ鉄道の工事に従事した縁で日本行きを誘われたか。着任早々ブラントンに従って港湾の調査やマクヴェインと交代で神子元島灯台の工事などに従事しました。同僚のマクヴェインとは親しかったのですが、やがてブラントンと不仲になり、後任が決まるのを待って退職しています。その後米国に渡り、事業を始めようとしていることをマクヴェインに手紙で知らせていますが、それ以降の消息は不明です。

ジェームズ・オストラー

07 ジェームズ・オストラー

(James Oastler, 1838-1920)
職名:鉛工兼器械取付方
月給:157円
任期:明治2年2月10日~明治10年5月12日

スコットランドのグラーミス生まれ。ダンディで鉛管工の徒弟を終えた後、いくつか外国で働きながら横浜へ流れて来て造船会社で働いていたところをブラントンから灯台の仕事に誘われたようです。屋根ふきや機械の調整用、配管など灯台の工事では鉛を扱う場面が多く、実際に数多くの灯台の工事記録にオストラーの名が記されています。通常は灯台見回り船で各現場を移動したことはわかっていますが、金華山から尻屋崎までのルートと交通費に関する資料をみますと、人力車や子馬や徒歩で移動しています。実際の工事では、建設中の現場を一つ一つ渡り歩いて仕事をした、オストラーのような一人何役もできる職人の活躍が大きかったのではないでしょうか。 オストラーは、後年オーストラリアに移住し、タスマニアでホテル経営したり、最終的には本業に戻って鉛管工(上下水道事業)の事業で生計を立てていたようです。

ジョージ・スミス・チャールソン

08 ジョージ・スミス・チャルソン

(Gorge Smith Charleson, 1844-1916)
職名:灯明番教授方
月給:165円
任期:明治2年9月14日~明治14年5月11日

日本の沿岸に洋式灯台を整備するにあたって、重要な灯台の直接監理や日本人保守要員を教育するために日本政府の要請によって派遣された経験豊かな3名の灯台保守教師の一人。中でもチャルソンはリーダー格でしたので、当初神子元島や紀伊の大島(樫野崎)等で勤務した記録もありますが、主に横浜灯台寮の試験灯台等で保守要員の教育をして全国各地の灯台に送り出す仕事をしていたと思われます。すべての灯台関係お雇い外国人の中で最後まで残ったことからも彼の仕事や人物に対する信頼がいかに高かったかがわかります。

09 ウイリアム・バワーズ

(William Bowers, 生没年不詳)
職名:灯明番教授方
月給:125円
任期:明治3年9月2日~明治10年10月24日

犬吠埼灯台の初点灯前後に初代首員を務めました。明治7年11月15日頃-明治8年4月転勤。『犬吠埼灯台経歴簿』によれば、明治10年1月17日-同年10月8日に再度灯台教師として犬吠埼に赴任しています。紀伊の潮岬にもバワーズの名が残っています。

10 ジョン・マーティン

(John Martin, 生没年不詳)
職名:灯明番教授方
月給:110円
任期:明治9年7月2日~明治12年7月1日

犬吠埼灯台首員として勤務。また、明治11年10月13日-12年7月1日まで2度目の犬吠埼勤務をしています。寺島治朗の『見聞日記』にも明治11年10月14日寺島家に着任の挨拶に来たとあり、翌12年1月3日「ジョン・マーティン氏並びに権妻来ル」とあります。契約期間からマーティンにとって犬吠埼灯台は最初と最後の勤務地であったことがわかります。

11 ジョン・ジェームズ・バーネット

(John James Burnett, 1845-没年不詳)
職名:灯明番教授方
月給:110円
任期:明治9年7月2日~明治12年7月1日

『犬吠埼灯台経歴簿』によれば、バーネットの犬吠埼灯台勤務は、明治10年10月21日-11年1月17日までとなっていますが、寺島治朗の『見聞日記』に明治11年10月13日「在勤の外国人バルネット氏転勤、本日出発・・・」とあることから、マーティンの前任者はチャルソンではなくバーネットであった可能性が高いようです。(チャルソンとバーネットの入れ替えか)

ジョージ・ウォーコップ

12 ジョージ・ウォーコップ

(George Wauchope, 生年不詳-1890)
職名:書記兼勘定方
月給:415円
任期:明治2年6月12日~明治9年4月30日

ブラントンの義兄。ブラントンの妻は妹にあたり、ブラントン来日時には妻の姉も同行しています。ウォーコップは英国のスティブンソン社との取引や国内での購買など灯台建設に関わる会計業務を担当していました。明治9年3月ブラントンの解雇とほぼ同時に解雇されていますが、帰国せずに横浜で民間会社に勤め、同地で没しています。

サー・ハリー・パークス

13 サー・ハリー・パークス

(Sir. Harry Parkes, 1828-1885)
職名:駐日英国公使
任期:慶応元年(1865)から明治16年(1883)

イングランド生まれ。英国の外交官で、幕末明治初期に18年間駐日英国公使を務めました。慶応元年(1865)着任後、列強と共に江戸協約(改税約書)の調印にかかわり、下関戦争の賠償金減額の見返りとして、より大きな利益をもたらす貿易の拡大のために日本沿岸に灯台を整備することを幕府に求め、列強間の意見を調整し英国主導の灯台整備体制を造りあげました。パークスは自ら「私の創造した子ども」と呼ぶほど灯台建設事業を精力的に推進しました。

ロバート・ファン・ファン・ファルケンボーグ

14 ロバート・ファン・ファルケンボーグ

(R.B.Van Valkenburgh, 1821-1888)
職名:幕末・明治初年の駐日米国弁理公使
任期:慶応2年(1866)1月着任、明治2年(1869)11月11日召喚状奉呈

幕末期に西欧列国の洋式灯台整備要求を英国主導で進められる中で、東日本近海に鯨の好漁場が形成されていたことや西海岸から横浜・上海に至る航路が発展しつつあったことから米国だけが、英国案に加えてイナボエ崎に灯台設置を要望しました。幕末維新の混乱期で結局犬吠埼灯台はこの時点では実現されませんでしたが、幕末期のいわゆる条約灯台の整備に一応のめどの付いた明治4年頃の日本側の要望から設置場所を決めていった段階では犬吠埼は最優先で整備すべき場所とされました。

伊藤 博文

15 伊藤 博文

(1841-1909)
職名:工部卿、後に初代内閣総理大臣

天保12年周防国に生まれる。松下村塾で学び幕末維新では志士として活躍。下関戦争が起こった時は井上馨と共に急ぎ留学先のロンドンから帰国し、長州藩に停戦させようとしましたが徒労に終わりました。新政府では年々枢要な地位役職を歴任しましたが、明治3年に発足した工部省の長である工部卿に就任、灯台を始めインフラ整備に力を入れ殖産興業を推進しました。時にブラントン等のよき理解者となりました。伊藤が岩倉使節団の副使として英国訪問した際は、ブラントンが伊藤を英国の有力企業家に紹介する案内役を務めています。

佐野 常民

16 佐野 常民

(1823-1902)
職名:工部省灯台寮灯台頭

旧佐賀藩士。明治新政府に出仕、明治4年(1871)工部大丞兼灯台頭、同6年(1873)1月兼免官後博覧会事務副総裁として渡欧、ウィーン万国博を仕切る。その後農商務大臣、大蔵卿、元老院議長等々を歴任しました。日本赤十字社創始者の一人としても有名。

佐藤 與三

17 佐藤 與三

(1843-没年不詳)
職名:工部省灯台寮灯台頭

天保4年山口県萩に生まれる。明治新政府では工部省鉄道助、灯台権助を経て明治6年(1873)1月灯台頭に昇進、その後鉱山局長、品川硝子製造所長等を歴任、同17年(1884)群馬県令、同19年(1866)同知事に就任。同24年(1891)依願免官。

中澤 孝政

18 中澤 孝政

(1833-1904)
職名:工部省一等技手

天保4年10月26日生まれ。明治元年尼崎藩より新政府に徴士として出仕、中澤家は代々築城や砲塁の築造に従事、孝政の日本の伝統的な土木技術に精通した仕事ぶりや新しい西洋の技術の理解の早さにブラントンも一目置くほどであったといわれています。中澤は在職中、佐多岬、神子元島、釣島、白州、犬吠埼、烏帽子島、蔭ノ尾島など全国各地の僻地・難所に灯台を建設して廻りました。犬吠埼灯台には明治5年11月21日から明治6年7月烏帽子島灯台建築場に転出するまで日本人技術職として工事現場を監督しました。地元には工事に使用する煉瓦石をめぐってブラントンと中澤が論争したという話が残っているにはいますが、果たして事実でしょうか。明治14年7月、中澤は官を辞すと民間で土木会社を起こし、本拠地を九州に移して明治37年に亡くなるまで松浦橋の架橋工事や唐津興業鉄道の設立・建設に参加するなど活発に事業活動を展開しました。

19 道家 正之

(1839-1879)
職名:工部省二等少手

工部省二等少手。明治4年灯台寮附属、明治5年11月犬吠埼に着任、同灯台初点灯直前の明治7年11月4日に尻屋崎に転任、犬吠埼灯台の工事係(技術職)として上司の中澤孝政と共に同灯台の建設工事に従事しました。『灯台経歴簿』には紋太郎名で記載されています。明治12年8月、出張先で病没。

藤倉 見達

20 藤倉 見達

(1851-1934)
職名:工部省一等技手、後に灯台局長

膳所藩の医者の子として生まれました。横浜に出て英語を学び、ブラントン来日直後に通訳として採用されました。ブラントンに随行して西欧の土木技術を実地に学ぶ一方、明治5年エディンバラ大学に留学。ブレブナー家に寄宿し、日本政府の灯台顧問スティブンソンの指導を受けました。帰国後は西洋の灯台技術を体得した日本人技師として灯台寮の技術部門の大黒柱となりました。お雇い外国人の技師や灯台教師が解雇され、中澤孝政が退官するなかで、明治14年権少技長を皮切りに昇任を続け、短期間灯台局長を務めた原隆義の後を襲って同職に就任。日本人技術者による灯台整備の先頭に立ちました。

21 原 隆義(清一郎)

(生没年不詳)
職名:灯台局長

熊本県士族、灯台建設事業に神奈川県所管時から従事。明治4年(1871)灯台助、同6年(1873)灯台権頭を経て同10年(1877)工部省灯台局長を2年間務めました。明治初年の神子元島灯台建設の現場担当としてブラントンやマクヴェイン、ブランデルなど多くのお雇い外国人技師や職人たちと直接接触がありましたが、1870年土木大佑の地位にあって彼らの仕事ぶりを批判、その排除に関する建白書を上申しています。

22 寺島 治朗

(1825-1881)
職名:徳川末期の土工家

文政8年(1825)1月、下総海上郡高神村に生まれ。家は代々名主職を勤めました。文久2年(1862)苗字帯刀を許され、特に16ヶ村の名主肝煎を命ぜられました。「治朗つとに公共のために尽くすところあり、慶応3年(1867)自費を以て堤防を築き、田圃耕耘に便した。」(『日本人名大辞典』第四巻)。犬吠埼灯台建設時から運用開始時の4年間と明治11年(1878)から5年間用弁方を務めました。なお『見聞日記』を書いたのは、次男の治三郎でした。『見聞日記』には同11年11月にJ.バーネットからJ.マーティンに交代とありますが、『犬吠埼灯台経歴簿』の記述とは異なっています。