灯台視察船テーボール号来航! お雇い外国人ら銚子・金華山に

灯台視察船テーボール号来航! お雇い外国人ら銚子・金華山に

 金華山灯台をはじめ明治初年の洋式灯台は、お雇い外国人技術団の指導の下に外国人と日本人とのコラボで建設されたといってよい。今回は、灯台建設の目的で犬吠埼や金華山にやってきた外国人の記録を紹介しよう。
お雇い外国人灯台技師長ブラントンが一時帰国中の明治5年(1872)5月、留守を預かる工部省燈台寮のフィッシャー技師や燈台権頭佐藤與三、大属長谷川嘉道等が灯台視察船テーボール号で横浜を出航、犬吠埼(千葉)や金華山(宮城)、尻屋埼(青森)、納沙布岬(北海道)等々の灯台建設予定地の調査及び機材搬送をした。なお船長のA.R.ブラウンは燈台寮の仕事だけでなく、日本政府のために兵員輸送用の傭船や中古船舶の調達、日本政府お雇いを辞した後は三菱の岩崎弥太郎を助け、三菱商船学校の開設や日本の運業・造船業の発展に尽くした。帰国後、在グラスゴー日本総領事に任命されている。
 このLog Bookに記載された内容からみると、航海の公式記録というよりは私的な日記に近いように思われる。お雇い外国人たちの仕事半分、休養半分のライフ・スタイルに日本人はおそらくカルチャー・ショックを受けたであろう。彼らは狩猟好きで、銚子の海岸ではセイウチ(海鹿島沖のアシカか?)の群れを、金華山では鹿やオラウータン(猿)を見たと記している。また、黄金山神社(旧大金寺)の僧侶と互いに饗応しあったとも。

< キャプテン ブラウン の Log Book >

S. S. テーボールの諸元等

                      竜骨長 180.0 フィート:全長 225.0 フィート:最大幅 28.9 フィート:

                      深さ 18.0 メートル:トン数 482.8 英トン:総トン数 809.9 トン:

                        出 力 370 馬力

                     S. S. テーボル 横浜から蝦夷(根室)へ 19回目の航海                                                                   (1872年5月14日~6月18日)

5月14日、午後2時25分、横浜を出航する。南東の和風。天気は快晴。野島埼と連絡を取らなければならないので午後4時10分館山湾内に投錨。一夜碇泊する。
乗船の官員は、責任者のフィッシャー氏、新任の政府官吏佐藤氏および長谷川氏等である。

5月15日、午前2時15分、館山湾を出発、野島埼沖で5時45分停船、官員を上陸させる。午前7時50分離岸、午後3時、銚子岬のポイントに停船し投錨する。その場所は、犬吠埼を南南東約2.5マイルに見る地点であり、利根川河口沖の非常に潮の流れの強い場所であった。
 午後3時30分、左舷の錨鎖が錨付近で切れる。犬吠埼に灯台を建設するための実地検分に来たフィッシャー氏や佐藤・長谷川氏等と共に私も上陸した。夕暮れ時に至り、フィッシャー氏は建設予定地の測量を終えることができないと判断し、我々は陸地で一夜を明かすことにした。そこは近くに漁村があるだけで、我々は役人たちが手配した薄汚れた家に宿泊した。夕食には、ほんの少しの米と魚が出された。

5月16日、とても不快な一夜を過ごし、皆、夜明けに目覚めた。犬吠埼に行って作業をし、残っていた仕事を終わらせた。私は沖の岩礁上に大型の去勢牛ほどもある、老体のセイウチらしき大群を見た。
正午に現地の測量を終えたので、役人たちは我々をある家に案内した。そこでは米と魚と酒が振る舞われた。2時30分、全員帰路につき、乗船して3時20分金華山に向けて出帆した。天気は、南の和風で好天であった。

5月17日、午前4時濃霧、午前11時、金華山を確認。船は金華山の島沿い南東約20マイルの位置にあった。金華山の周辺は強いうねりがあって、投錨するのは非常に大きな危険を伴うため半島の先端を西方に廻り、とてもよく防御された湾内*に錨を降ろした。(*鮎川と呼ばれている場所)午後からは、一等航海士のアレン氏、私と同様にライフル銃とピストルを携行したフィッシャー氏等と金華山に上陸した。おびただしい数の鹿を発見し、私は銃を3発撃ったが、一頭も仕留めることができなかった。

5月18日、午前6時、和船で金華山に向かう。灯台建設予定地へは非常にきつい行程だった。途中多数の鹿が駆けているのを見たが、人見知りしない。金華山は神聖な場所であり、鹿たちも保護されている。私はまたとても大きなオラウータンを見た。我々は帰る途中で寺に寄った。そこで、我々は僧から豪華なご馳走の持てなしを受けた。私は僧の許しを得て大きな雄鹿を撃ちに出かけた。船に戻ったのは午後10時頃だった。僧は船を見るために我々についてきた。彼は今まで西洋の蒸気船を見たことがなかったのだ。我々は彼をヨーロッパのワインその他で饗応した。僧は深夜に我々の船を去った。

5月19日、鮎川を午前6時に出港して石巻に到着、河口の沖に投錨した。天気は快晴。フィッシャー氏は佐藤氏と共に灯台建設地を選定するため上陸した。
午後鮎川に戻り、碇泊した。

5月20日、午前4時に鮎川を出港、天気は晴天かつ静穏。午後2時頃宮古に到着し、集落の沖に投錨する。フィッシャー氏と私はピストルを携帯して上陸、たくさんのキジを発見したが、一羽もしとめられなかった。天気晴朗。

5月21日、フィッシャー氏と佐藤氏は建設する灯台の位置を選定するため上陸した。午後5時、本船は尻屋埼に向けて出航。軽風やや霧。

5月22日、午前6時、尻屋埼に到着。朝食後、灯台建設地を選定するため上陸するフィッシャー氏と長谷川氏に同行し、岬に向かった。近くの岩の上で大きな声で鳴く巨大なアザラシの群れを見た。午後2時頃本船に戻った。午後3時には厚岸に向けて抜錨。天気晴朗、南の風。

以上はイギリス・グラスゴー大学所蔵のA.R.BrownのLog-Bookから往路の犬吠埼と金華山の部分を抜き出して犬吠ひろしが翻訳したもの。

写真はブラントンの遺品アルバム(横浜開港資料館所蔵)より。テーボル号ブリッジ上の二人の外国人のうち向かって左黒っぽいブルトン・キャップがブラウン船長、右が白っぽいピス・ヘルメットをかぶったフィッシャー技師だと思われる。和服の着流し姿で犬をあやしている日本人は誰だろう?

 

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