つい先日、二代歌川国輝の錦絵「総州銚子湊灯台図絵」について市外に住む女性の方から電話で照会がありました。銚子にご縁のある方で1枚ものをお持ちだとのこと。私が知る限り、国輝の犬吠埼灯台の錦絵は大別して4種類あるようです。
1.明治7年から9年(1874-76)頃に初摺りされたオリジナル版画(大判3枚続き)
2.昭和10年(1935)昭和灯台還暦祭の記念品として新たに版木を起こして摺っ た復刻版画(大判3枚続き)
3.犬吠埼灯台80周年の記念品(1954)、1枚もの、オフセット印刷
4.犬吠埼灯台100周年の記念品(1974)、1枚もの、オフセット印刷
その他、たまに個人の結婚式で敷物にしたものや銚子電鉄の記念チケットなどにもこのデザインを見ることがあります。したがって、照会のあった絵は、市内K印刷が刷った3か4のいずれかになると思われます。
改めてこの錦絵を見てみますと、灯台上部の灯室や半球形のドームあたりの変形はご愛敬として、田舎まちの銚子に突然出現した文明開化の高塔を洋装・和装の老若男女が大勢見物に訪れている様子は賑やかで微笑ましくさえ感じられます。そもそも、「灯り」というものが貴重であった時代、太陽が沈み、にわかに灯った犬吠埼灯台の巨大なレンズから発射される強烈な光の束が真っ暗な海や浜を撫で照らす光景を一目見ようと人々は灯台を臨む君が浜や酉明浦の浜辺にゾロゾロと繰り出し、きっと時の経つのを忘れて「文化の光り世を照らす(銚子市歌)」様に見とれたことでしょう。
オリジナルの版画については、初摺りが明治9年頃ともいわれていますが、作者の曜斎国輝は、犬吠埼灯台が完成した明治7年11月の翌月没しており、版画の左下に「梅堂国政補助」とあるように途中から同門の絵師四代国政の手が入っています。
浮世絵の専門家によると、一般に絵師は必ずしも現地に行って写生しているわけではなく、図とか他人の描いた絵とかをヒントに構想力を膨らまして描くことも多かったのだそうです。そういえば、この錦絵の場合、灯台敷地内の施設の配置が正確で、目線も灯台を斜め上から見下ろすようになっています。当時は灯台の近辺に高い建物はまったくありませんでした。なので、国輝は錦絵の制作依頼主(たとえば、左下端に版元とは別に「銚子新生町 松本岩吉」ないし「 松本岩吉」と記載された版もある)とか灯台の主務官庁である工部省燈台寮の関係者に図面のようなものを見せてもらったのではないかと考えます。
また、しばしば「灯塔は白色ではなく、完成当時は錦絵のようにレンガ地のままではなかったのか」、と質問されることがあります。そんな場合に私は、明治初年の錦絵を「開化絵」と呼ぶように、文明開化の象徴である超モダンなレンガ造りの建造物を何枚も書き残している国輝は、時代の最先端のレンガ造の建造物であるということを表現するため、あえて見えない目地を描いたのではないかと答えています。いずれにしても、当時はセメントがまだ高価で入手困難な時代で、工事現場で石灰を焼いて石灰モルタルを接着に使用したとブラントンの著書には書かれています。おそらく煉瓦の外壁には、当初は白い漆喰、後に白いモルタルが塗られたものと推測されます。
実際に、灯台が完成すると、日本政府は運用開始を国内外に公文書で知らせるのですが、その告示にも新設の灯台の特徴を「白色円形煉瓦石造」と記していますので、犬吠埼灯台が完成当初から白い灯台であったことはまず間違いないでしょう。もし違っていたら、船舶が自船の位置や進路を誤ってしまうことにもなりかねませんもの。もちろん、白塗りの下はいまでも正真正銘赤みのレンガです。