昨日東京で見た映画「光をくれた人」の余韻に浸りながら、今日の夕方には犬吠埼の灯台下から遙か9000キロ南のキャンベル岬灯台に思いを馳せる自分がいる。(以下ネタバレ含む)
“テッシュ会社の株価が上がるほど観客は涙したに違いない! The Guardian”というのはかなりオーバーだが、左右の席の女性が目頭を押さえていたのは確か。
私も原作と監督と出演者がハイレベルでマッチした名画だと思う。なかでも灯台守トムを演じたM・ファスベンダーの演技が圧巻だった。
時は1920年代、オーストラリアの西南端沖に位置し、インド洋とオーストラリア南洋の2つの大海を照らす無人島の灯台がメイン舞台という設定だ。戦争で受けた心の傷を引きずり、どこか物憂げで寡黙なトムだが、帰還後は自ら無人島の灯台守に志願、しばらくして本土に暮らす名士の娘イザベルと結婚し、島で2人だけの幸せな生活を送っていたが、2度の流産が理由でイザベルが時折精神的に不安定になる。そんな時、島に男の死体と赤ん坊が乗ったボートが流れ着き、イザベルは、この女の子(ルーシー)を我が子として育てたいと懇願する。トムは、正義と夫婦愛との相克に苦悶しながらも、いつか人里離れた島で家族3人幸せな日々を送ることを受容していった。トムは、本土に渡った時に偶然ハナが実の母であることを知り、ルーシー(実はグレース)の無事を匿名の手紙でハナに知らせる。やがて真実が世間に明らかになり、最愛の妻イザベルと夫と赤ん坊を探し続ける実母ハナとの激しい葛藤にトムは勇気と誠実さで立ち向かって行く。
ルーシーは、法に従って実母に引き取られたが、馴染めずに灯台のある所に行くと行って家を飛び出し、倒れているのを発見されたこともあった。
トムは終始妻をかばい、全て自分が罪をかぶろうとするが、土壇場でイザベルも自ら関与を訴え出る。ハナの減刑嘆願もあって二人は短い刑に服し、その後は、田舎で余生を送った。イザベルが先に身罷り、ルーシー・グレースが赤ん坊を連れて会いに来る。彼女はトムが引き出しから出してきた生前イザベルが書き遺していた一通の手紙を読む。そして、トムの家を後にしていくシーンで映画は終わる。
「光は必要とする者を守るためにある」。灯台40周年祝賀会でのトムのたどたどしいスピーチに感化されたのはハナだけだっただろうか。2つの大洋を照らす灯台、2人の母親と2つの名をもつルーシー・グレース、トム自身の理性と妻への愛情等々、無人島の名称ヤヌス・ロックこそは、2面性、2極性のあるもの全てを司るあのローマの神ヤヌスだったのだ。
トムは単なる灯台守の任務を超えて、ヤヌスの神がもたらした2極性にもがき苦しむ人々に光を与えた。正に灯台の光を守る人から二つの大洋を照らす灯台そのものに止揚したのだと思う。
昨年6月15日、私がこの映画で使用された回転機械を見たい一心でロケ地のニュージーランド・キャンベル岬灯台に行ってきたことは既にblogに書いた。これがどんなふうに登場するか期待していたが、待望のシーンは、トムが薄暗い灯室でカチ、カチ、カチッと機械のハンドルを回し、分銅を巻き上げるワン・カットだけだった。原作ではもう少し灯台の仕事があれこれ描写されていたのだが? まあ、こんなものでしょう。
デレク・シアンフランス監督は今回も彼一流の映画制作スタイルで、主演俳優や少人数のスタッフとキャンベル岬灯台で共同生活したという。あの長くて急な木製階段をトムがイザベルを抱えて降りるのは大変だったろうと思う。手すりも柔なうえ踏み板の下に地面が見えるのはあまり気持ちのよいものではなかったから。その他にも夫婦が幸せな時間を過ごしたベランダ、ルーシーと遊んだ草地、嵐の日には草木も真横になびく灯台の建つ丘の急斜面、朝夕の海の景色、なんといっても黒と白のストライプの灯台を斜め上から見た遠景など、自分が見てきた風景のバリエーションが画面にいっぱいに映し出されるのだからたまらない。
トンボ返りで帰宅し、パンフレットを読み、原作をめくっては、「あのシーンは、なるほどそうだったのか」と一人うなずいた。もう一度観てみたい映画だ。