明日2018年8月8日は、台風13号の関東上陸が避けられない模様。残念無念! 実は、団体の名称にブラントンの名を戴く犬吠埼ブラントン会としては、8日の日、私と会員のI君と二人で横浜港に遠征し、ブラントン一行の上陸地点と推測される大桟橋近くの象の鼻公園や、大通公園のブラントンの胸像前で感謝の気持ちを表したいと思い準備していたところでした。
「日本の灯台の父」と尊称される日本政府お雇い外国人第1号のリチャード・ヘンリー・ブラントンは、ちょうど150年前の明治元年(1868)8月8日に横浜の地を踏みました。以後、弁天橋の灯台寮を本拠地として通算9年間に洋式灯台25基、灯船2艘その他を設置し、日本沿岸の航路標識システムの整備に大きな貢献をしました。
着任した1868年の半年は、灯台寮内の建築や横浜の都市整備に腕を振るい、11月から翌年初にかけて、イギリスの軍艦マニラ号に乗船し、幕末に西欧各国から灯台設置の要望があった場所を見て回わりました。同行したマクヴェインやブランデル技師を交代で配置し、伊豆下田沖の神子元島灯台の建設に本格的に取り掛かったのは2年目の1869年のことでした。
当会のブラントンとの付き合いは結構古く、2001年4月にイギリスロンドン郊外のウエスト・ノーウッド共同墓地でブラントン没後100年祭を執り行ったことに始まります。2011年にはブラントンの来孫(5代後の子孫)アンドリュー・パークス氏を犬吠埼に迎え、ブラントンの足跡をたどって横浜も案内。ブラントンの来銚を示す証拠を遺品『押し葉・押し花絵帳』の中に見つけたこともありました。
かつて「日本の灯台と横浜のまちづくりの父」などともてはやされたブラントンも、世が移り、時の流れとともに人々の記憶から次第に薄れてきているように思われます。時折、ブラントンに関する聞きかじりの知識や全体を見ない評価に接し、胸を痛めることもありました。そんな最近の風潮だからこそ、「灯台150年は、ブラントン来日150年でもあるのですよ!」と一言いいたいのです。
この日のために新調した「祝・ブラントン来日150年」の横断幕やブラントンのお面も、台風のおかげでハレの日にお披露目することはできなくなりそうですが、26日(日)の犬吠埼灯台夜間公開時のバグパイプ演奏や11月の灯台記念日(灯台150年)、志摩の灯台ワールドサミット等々、年内に何度かチャンスはあるでしょう。
何はともあれ、ブラントンさんありがとう!
※写真は横浜開港資料館所蔵の遺品アルバムより転載。新聞記事は、ジャパン・タイムス・オーバーランド・メイル1868年8月22日号