また、リンドの業績には直接関係しませんが、明治24年、平均海水面の決定を目的とする験潮場が高神(5月25日、下総)、串本、深掘、外浦、輪島、鮎川の6箇所に開設され、日本で初めての自記記録の本格的な潮位観測が開始されました。明治27年6月、高神験潮場が廃止され、その機材を使用して油壺(神奈川県三崎町)に験潮場が設けられました。(『陸地測量部沿革史』より)
リンド自筆の水準測量予定コース
L. V. Gasteren, "Die eeuwige rijst met Japansche thee",2002,Amsterdam,P.175幻のリンド・モニュメント(ハステレン氏原案)
■リンド技師の来銚
以下の記録からリンドが量水標や水準原標石の設置で少なくとも2~3回来銚していることがわかっています。1872年6月18日(明治5年5月13日)
「このたび蘭人2人ほか土木司お役人付き添い、明日到着につきお宿の儀、戸長より申しつけられ候らえども病人これあり、差し支えにつき申し訳いたす」、『玄蕃日記』(明治5年5月12日付)1872年10月17日
「飯沼着、量水標が不備でやり直しする」『リンド日記』(1872年)※このとき水準原標石を設置したのか、または年内に再度来銚して設置したのかは不明です。
■アイザック・アン・リンド(I.A.Lindo,1848.9.20-1941.12.2)の経歴
1848年、オランダのアーネム市生まれ。1868年、ブレダ陸軍士官学校を卒業後工兵中尉に任官。
1872年3月24日、日本政府土木寮のお雇い外国人技師として技師長のファン・ドールンと共に来日。
1875年(明治8)10月31日、3年の契約期間を終え帰国。
1886年、アーネム市土木局長、1890年からはハーグ市の土木局長を務める。
1818年7月1日、同職を辞任して土木技師としての活動を終える。
なお、イギリス人のお雇い外国人技師ブラントンが監督した犬吠埼灯台の着工は明治5年9月、ほぼ同時期にリンドが銚子に飯沼水準原標石の設置をしていることや新潟県信濃川河口の大河津分水についてリンドとブラントンが日本政府の要請を受けて調査報告書を提出しており、オランダとイギリス両国のお雇い外国人技師が銚子と新潟で同時期に仕事をしていたことに興味を惹かれます。
飯沼水準原標石は、銚子市馬場町1-1 飯沼山円福寺境内(五重塔裏手左隅)に設置されています。実物は69.3cm四方の石柱が地中に埋められ、地表に露出している石柱上端部にある小盤の上を基準点としていましたが、現在小盤は欠けた状態になっています。
2002年11月20日、銚子リンド研究会設立記念講演会に出席したハステレン監督夫妻。E.F.ヤーコプス駐日オランダ大使や国交省利根下流及び江戸川事務所、国土地理院からも来賓として出席されました。
2004年2月17日、銚子リンド研究会有志他でオランダ・ハーグ市内にあるリンドの墓をお参りし、その後、お雇い外国人技師リンド及びデレーケの子孫達と懇親しました。
2004年2月17日、銚子リンド研究会一行がリンドの晩年勤務していたデン・ハーグ市庁舎を訪問。この時壁面に飾られていたプラークの複製について帰国後改めて照会したところ、ハステレン氏のご尽力により後日デン・ハーグ市から銚子市に無償贈呈されました。
2015年11月19日。飯沼水準原標が日本土木学会の選奨土木遺産に認定され、飯沼山円福寺本堂で執り行われた認証証伝達式の式場で久しぶりに披露されました。